【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(1)
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続き
第2回 引き裂かれた母と子
飯塚繁雄は28歳で結婚した。
1967(昭和42)年の秋。東京・北区で催された祝いの宴には、妹・八重子ももちろん加わった。

*繁雄の結婚式の時のスナップ 繁雄と八重子
写真(上)は、挙式した会館内での一場面。八重子はセーラー服姿だが、まだ12歳だ。
―この日から11年目、22歳で拉致され、会えないままの八重子。
今となっては、繁雄にとって、兄と妹が顔を揃えた唯一の写真となってしまった。このときの八重子は、結婚式というものに初めて出席し、たくさんの親戚と会えた嬉しさで、少し、はしゃいでいた。
この日の新婦・栄子が、のちに、八重子の残していった子供・耕一郎を「母親」として育てることになるなんて、結婚式に列席した誰一人、想像さえしなかった。
結婚式の前年、飯塚家では父親が亡くなっている。
母親のハナは長年、7人の子育てに追われていたが、夫の死後、50歳を過ぎて初めて働きに出た。一家を支えるためだ。自宅のあった埼玉・川口に、当時ちょうどオートレース場ができた。ハナは、そのなかにある食堂で働き始めたのだ。
結婚し、自宅を出て社宅住まいとなった長男・繁雄。一方の末っ子・八重子も中学、高校へと進み、それぞれの生活の中で時間に追われていた。それでも、父親の死後、八重子は年の離れた繁雄を父親のように慕い続けていた。繁雄の妻となった栄子も「八重ちゃん、八重ちゃん」と呼んで義妹を可愛がった。
繁雄・栄子夫婦は結婚後、3人の子に恵まれている(長女・次女・長男)。八重子にとっては姪や甥だ。その子たちを八重子はよく可愛がった。中学生や高校生の八重子が、繁雄の子をだっこしたりおんぶしたりしている写真が何枚も残っている。
下の写真も、そんななかの1枚だ。14歳の八重子と、繁雄の長女。それらの写真を眺めながら、繁雄は今さらながらに思う。「八重子は、子供好きだったんだなあ」と。

*14歳の八重子が繁雄の子供を抱いた写真。
ましてや、自分の幼い子供たち・・・。2歳半の長女と、1歳少しの長男・耕一郎。その2人を残したまま突然拉致されてしまった八重子の胸中を思うとき、繁雄はいつも決意を新たにする。
「八重子と耕一郎・・・この母と子を絶対、会わせてあげなければ」と。
北朝鮮に連れて来られた直後、八重子はお腹に残っていた妊娠線まで見せて「私には小さい子供がいる。日本に返して」と、泣きながら北の担当者に訴えたという。地村富貴恵さんが、北朝鮮で八重子から直接聞いた話として繁雄に伝えてくれた。
引き裂かれた母と子―。
ハナと八重子、この母と娘もまた拉致によって引き裂かれた。
八重子の母ハナは、娘が突然、原因不明の失踪をしてからは、繁雄の顔を見るたび「八重子はどうしてるだろうか」と口にした。
調理師免許も取り、オートレース場や企業の社員食堂で70歳まで働き通したハナ。晩年は脳卒中の後遺症で病院や施設での生活を続けていたが、92年、80歳で帰らぬ人となった。最後まで娘を案じ、娘に会えないまま。
その死は、警察が「李恩恵の身元は埼玉県出身の田口八重子さんと判明」と発表した翌年のことだった。
*「第3回 2人の八重子」に続く
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(3)
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