【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(3)
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続き
第4回 3人の名を大きく書き込んだ次男としてのアルバム
耕一郎のために、きちんとアルバムを作ってあげなければ・・・飯塚繁雄は、そう決心した。
妹・八重子の子供、幼い耕一郎を自分の子供として育てることに決めた今、繁雄・栄子夫婦の次男としてのアルバムを、ちゃんと作ってあげなければならない。将来、耕一郎が出生に疑問を持たないように。
繁雄は愛用のカメラを構え、しっかりとシャッターを切った。飯塚家での耕一郎、最初の1枚だ(写真)。秋が近い、ある日。居間で、カーペットの上をハイハイする耕一郎は、もう1歳半になっていた。

*耕一郎、飯塚家での初めての写真(1歳)。
―1978年6月、突然、行方不明となった八重子(拉致だと分かるのは10数年後のことだ)。あとには幼い2人の子供が残された。2歳半の女の子と、1歳少しの耕一郎。しばらくは繁雄が2人を預かった。
だが、いつまで待っても八重子の行方は知れぬまま。やがて、飯塚家では家族会議が開かれた。その結果、上の子は、八重子の姉が引き取ることになった。耕一郎は繁雄が育てることにした。
繁雄には既に3人の子供がいる。9歳の長女、8歳の次女、小学校に上がったばかりの長男だ。
しかし、繁雄は耕一郎を引き取ったときから決めていた。上の3人と分け隔てなく育てよう、自分の本当の子として育てようと。
妻とも話し合った。2人の子として精一杯育てよう。成長した耕一郎が真実を知ったとき、「ああ、僕は本当の子供じゃなかったんだ。だから不幸だったんだ」と、ほんのわずかでも感じることのないように。
そのためにも、飯塚家の子供としてのアルバムを作らなければならない。八重子が住んでいた部屋に、子供たちの写真は1枚も見当たらなかった。2人の子供を女手ひとつで育てていた八重子。生きることに必死で、写真を撮るゆとりなどきっとなかったのだろう。
だからこそ、耕一郎が幼い今のうちから、飯塚家の次男としての歴史を、できるかぎり刻み込んであげなければならない。「なぜ僕だけ、生まれてすぐの写真がないの?」と、耕一郎に不思議がられないように。
繁雄は新しいアルバム帳を買ってきて、表紙の裏側にこう記した。
「生年月日 昭和52年2月17日 午後0:53」「体重3440g 身長51.5cm」
八重子の荷物の中にあった母子手帳から、ひとつずつ書き移す。その下には、次のように書き込んだ。
「父 飯塚繁雄 母 飯塚栄子」「子 飯塚耕一郎」
3人の名を、ことさら大きな文字で記した。「僕は、この両親の子供なんだ」―アルバムを開くたびに耕一郎がそう感じてくれるように。
繁雄はアルバムに、最初の1枚を貼りながら思った。これからも耕一郎の写真をたくさん撮ってやろう。このアルバムを、耕一郎と我々家族の写真で埋め尽くそう。耕一郎が、生い立ちの秘密に気づくことなく、真っ直ぐ育ってくれるように。
そして、いつかこのアルバムを八重子に手渡したい。「ほら、お前の子供は、こんなに元気に、こんなに立派に育ったよ」と言いながら。
飯塚繁雄・栄子夫婦の次男として飯塚耕一郎のアルバムは、こうしてその扉が開かれた。
*「第5回 大人になるまで守りきらなければ」に続く
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(5)
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