【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*八重子と耕一郎 2つのアルバム(5)
http://akemama13.seesaa.net/article/56612936.html
続き
第6回 母子で写った唯一の1枚
八重子と耕一郎 ―親子でありながら、別々のアルバムの中でしか生きてこられなかった2人。
その2人にとって唯一、一緒に写っているのがこの写真だ。

*八重子さんと子供二人が一緒に写っている唯一の写真。(左から八重子、耕一郎の姉、抱っこされている赤ん坊の耕一郎)
1977年8月。耕一郎が生まれてまだ半年。八重子は22歳の誕生日を迎えたばかりだった。川口市内の実家に近いアパートで、結婚生活を営んでいた時代。八重子は、やさしい母のまなざしで、長女(左)と長男・耕一郎を見つめている。
だが、飯塚繁雄と耕一郎がこの写真と出会ったのは、つい最近のことだった(2004年春)。
写真の持ち主Nさんは繁雄にこう語っている。アパート2階の3世帯は仲良しでした。うちが引っ越すことになって開いてくれたお別れ会。その記念に撮った写真です。八重子さんの部屋で。八重子さんの手料理で。部屋はいつもきれいに片付いていて、若いけど、ちゃんと“母親をして”いましたと。
そのアパートには繁雄も何度か足を運んだことがある。だが、この写真から間もなく、八重子自身もここを去った。母と子だけで生きていく決意を固めたからだ。
幼い2人の子供を抱え、職を探し求め、池袋で働き始め、部屋も見つけ、その地で懸命に暮らし始めた・・・その矢先。八重子は拉致されてしまったのだ。この写真からほぼ1年後のことだった。
その失踪から10年後、日本人“教育係”李恩恵の存在が浮上する。李恩恵の身元を捜索し続ける警察は、やがてNさんの元にまで現れた。自分のアルバムを見直したNさんは、この写真を剥がして、ひそかに持ち続けていたという。
さらに10数年が過ぎた。2002年9月、小泉訪朝。その結果、妹は死んだと通告され、飯塚繁雄は遂に立ち上がった。「私が田口八重子の兄です」― 初めて世の中に向って名乗り出たのだ。家族会の一員として、妹の救出を訴え始めた。
生活は一変した。大きな渦の中に放り込まれたような日々。将来ある耕一郎を「お前には、まだこの荷を背負わせたくない」と押し止め、繁雄だけが活動の表に立った。
だが、耕一郎も気持ちを抑えきれなくなる。2004年2月。「母を1日も早く返してほしい」― 27歳の青年に成長していた田口八重子の長男は初めて、存在と名前を公にして母親奪還の戦列に加わったのだ。会見の様子をテレビで見たNさんはこれならもう写真を表に出しても迷惑をかけることはないと考えた。
・・・こうして耕一郎は、唯一の親子一緒のこの写真と出会ったのだ。
それは、耕一郎にとって生涯最初の1枚でもあった。繁雄が撮った最初の1枚(第4回参照)より、さらに幼い時代の耕一郎だった。
写真を見て繁雄は思った。耕一郎はきっと安心しただろう。自分はちゃんと母親の愛情に包まれて育ったのだと知ることができて。そしてまた、繁雄は思う。この写真のなかにある、普通の生活。平凡な親子の幸せ。それを取り戻してやりたい、取り戻さなければならないと。
必ず取り戻さなければならない。八重子と耕一郎 ―別々だった2つのアルバムが交じり合い、この写真のように、2人が同じひとつのアルバムのなかで微笑む日を。微笑むことのできる、日本での日々を。
終わり
*小山さん、本当にありがとうございました。
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