*写真はあおいのママの撮影です。
*2004年6月2日に友愛会館で行われた戦略情報研究所の第一回講演会での拉致被害者 増元るみ子さんの弟・照明さんの講演要旨レポートです。当日の正確な人数はわかりませんが、会場はいっぱいでした。この年の夏、増元さんは参議院選挙に出馬されました。聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。
『26年間を通して感じたこと』
【増元照明さん・家族会事務局次長・特定失踪者問題調査会常務理事】
こんばんは。わざわざこちらにいらっしゃるような皆さんのおかげで一昨年5人の被害者が日本に帰国でき、そして今回地村さんと蓮池さんのご両家のお子さんたちが帰って来られたのだと私は思っております。皆さん、本当に感謝申し上げます。我々の運動だけではこんな快挙はできなかったと思います。
しかるに何故我々が今回の訪朝に怒ったのか、それは後々追々申し上げますけれども、我々の中には「何故5人しか取り戻せなかったのか」で、一般の方は「5人が帰って来たからよかった」という見方が多かったようですが、我々あの時は「何故5人しか取り戻せなかったんだ」という思いでいました。
今日の私の講演の内容は“26年間を通して感じたこと”です。26年間を30分に分けるのは大変だと思いますけれども。まず、皆さんはある程度はご存知だと思いますけれど、私の姉・るみ子は1978年8月12日、これは曽我ひとみさん母子が拉致された日でありますけれども、鹿児島の吹上浜という所から拉致されました。
その当時、北朝鮮による拉致なんてことはまったく考えられず、日本の警察が一生懸命捜してくれて我々も一緒に捜しましたが、懸命に捜索した結果が何も出てこなかった。あの時家族は途方にくれました。“神隠し”という言葉も頭に浮かびましたし、当時“UFO”という、そして「エイリアンが地球に来て人間を連れ去っていったのではないか」そういうことしか考えることができなかった、そういう時代でした。
ただ荒木さんがおっしゃったように、国家は必ずこのいなくなった人たちのために動いてくれているだろう、国家というものはそういうものだろうと思って信頼しておりましたので、警察にすべて任して情報を待っていた、という状況がありました。
1980年に阿部雅美さんの発表で「3組のアベック失踪事件」が公になりましたけれども、その時私はまだ北海道におりまして、産経新聞を読んでおらず、記事をほとんど知りませんでした。そういう記事が出たことすら十数年後に知ったという状況で、他の新聞がそれを全然追随しなかったものですから、私の姉の失踪に結びつけることがなかなか出来なかった。事前にそういう方が実家の方に来られて「北朝鮮の拉致ではないか」という話はされていたのですが、さすがに私たちも荒唐無稽な話なものですから、ちょっと信じがたい部分もありました。
でも、それまで1年半以上警察に調べてもらっても何も出てこなかった、そういう諦めるしかなかった状況の中である一つの光明だったと私たちは感じています。「北朝鮮にいるのだったら生きているのではないか」と、そして「生きていたら必ずいつか会える」と。
北朝鮮という国がどういう国かほとんどわかっておりませんでしたけれども、ただ何となく怖い国だというものは持っておりました。その中でも政府はこういう問題が起こったら必ず誠実に動いてくれているものだと私たちは思っていましたので、先ほども言いましたように、政府にまかせっきりになってしまっておりました。
それから何年経ってもなかなかはっきりしたことが出てこないし、情報も入ってこない。ただ「二人拉致されているのではないか」というあやふやなことしかなかったので、私の父などはやはり当初は占いにも行きましたし、当時公明党議員にお願いして国会にも質問してもらったこともあるようです。
しかし結局何も埒があかなくて「どうすればいいんだ」と自分の中にだんだんしまい込んでいってしまいました。家族たちが話してもどうしようもないジレンマの中で、もうその言葉を口にすることが家全体を悲しみに包んでしまうのです。家のお袋はすぐに泣いてしまうもので、私たち子どもとしましても、るみ子の話をするのがだんだん出来なくなってしまいまして、それで自然に自分の心の奥底に姉のことを思うようになっていってしまいました。
それから世の中を見ていると、そういう大きなものを失った私たちなんですけれども、大切に大切にしていた人を失った、それでも世の中というのはほとんど同じように動いている、まったく我々のまわりの人たちは同じような生活を送っている、それが非常に自分たち心の中の悲しみ、まわりの陽気さ、それと自分の生活をしている人たち、その様子のギャップというのがありまして、自分としても自暴自棄になった部分もありました。
それからしかし19年間、姉が結局拉致されてから19年間というもの、その北朝鮮という国の怖さや、日本政府へのある程度の信頼で我々は動いてこなかった。で、あまりにも動いてこなかったので、途中で徐々に諦めかけていたという19年間があります。
ご多分にもれず、私も昭和30年生まれですので、やはり学校教育の中では「日本という国は戦争中に何をやってきたのか」ということを嫌というほど教えられ、どうしても朝鮮半島そして中国大陸に対する贖罪意識を埋め込まれてきた、その中で何となく自分の中でも「北に対して強くものが言えないんだ、中国みたいに強くものは言ってはいけないんだ」という自虐的な部分を埋め込まれてきた、そういうことを今感じております。
しかしそれから十数年経って、めぐみちゃんの事件が1997年の1月、はっきり表に出ました。その時に我々は家族会を作らなければならないと、石高さん・兵本さんのご尽力で3月に家族会を結成する運びになって、いきなり親父から電話がかかってきたんです。私はその頃東京におりまして、「あさって東京に行くから」と言うので「何で東京に行くんだ?」と聞きましたら「拉致被害者家族が集まって救出運動を始める」と言いました。
私たちも全国にそういう方たちが何人かいらっしゃる、ということは聞いておりました。しかしそれが一同に介して救出運動に走るという発想がまったくございませんでした。でも兵本さん・石高さんのご尽力でめぐみちゃんの件をきっかけに「今一番チャンスなんだ」という思いが家族の中に芽生え、そして3月にこの東京で皆さんが一同に介して家族会を結成しました。
その時、めぐみちゃんのお父さんお母さんと子ども2人がテレビへの露出度も高く、東京近郊にお住みだったがゆえに代表をお願いすることになったのですが、当初代表は銀行員で「私はお金の計算とかそういう事務的なことは出来ますけれども、とても代表は出来ない」とおっしゃって固辞されていました。しかし我々はどうしても姉弟ですので訴える力とか、テレビに映る今まで1〜2ヶ月見ていた横田さんご夫妻が家族会の顔になるのがこの会のためには絶対に不可欠であろう、ということで、もう膝を屈してお願いし無理やり代表になっていただいたのですが、それからお二人のいばらの道が始まったと非常に申し訳なく思っております。
しかし、この拉致問題をセンセーショナルに、そして家族会を結成した時は十数社のカメラが入りました。記者も50人弱くらい来ていただきました。一時期センセーショナルには報道されております。それから先じゃあ何が始まったのかというと、結局一過性で報道が終わってしまい、それから徐々にこの拉致問題に対する報道の皆さんの関心がなくなってきたように感じております。
ニュースを信条とするマスコミの方たちは、ニュース性がないと非常に長く続くとだんだんと興味を失っていきます。特に2年くらいで記者の方たちの周期が変わっていきますので、ですから一回記者会見やって2年目に記者会見をすると新しい人がいて、その新しい人は拉致問題をまったく勉強していないので、ほとんど一からまた話していかなければならない。こういう思いを横田さんも我々も感じていました。そして記者会見を開くたびに徐々にカメラも記者の数も少なくなっていきました。何で日本にとって国家にとって大きな問題であるのに、マスコミの方たちはとりあげて、そして救出してくれないのだろう、という思いは非常に強くなってきておりました。
我々も家族会を結成してから、この会場です、友愛会館9階で救う会の佐藤会長、そして西岡さん、荒木さんが講演されているのを何回も、必ずこういう状況で勉強会を開いておりましたので、我々一般市民は北朝鮮という国をよく知るようになり、今北朝鮮で何が行われているのかと知るようになったのはお三方のおかげだと思っております。このお三方が中心になって救う会ができました。さすがに私たちも一般市民だったものですから、最初佐藤会長は恐い顔をしているので(会場笑い)西岡さんと荒木さんは優しい顔をしていらっしゃる、で、優しい顔をして過激なことを言っているものですから、「ちょっと待てよ」というふうに私も怒ったんです。
この拉致問題は確かに北朝鮮という国が大きな犯罪を犯したのではあるけれども、我々は北朝鮮に「家族を帰してくれ」と言っています。ただ北朝鮮の金正日体制が悪いとかそんなこと思っていなかったのですが、「ちょっと待てよ」と「これはあまりくっ付いていいものだろうか」と私はある時思ったんですが、(会場笑い)勉強会を重ねるうちに彼ら三人の先生が言うことや色々な本を読む機会が増えて「やはり北朝鮮という国はひどい国なんだなぁ」ということを自分でも知るようになりました。
一番決定的に救う会の皆さんと一緒にやっていこうと思ったのは、荒木さんがおっしゃった言葉なんですけれども、食糧支援問題に関して、
「今、日本が色々と食糧支援をしても向こうの本当に困っている人にはいかない。それを見て脱北者の中から『何故日本はあの金正日政権のために食糧支援をするんだ』という声が挙がってしまう。つまり戦前は植民地支配で、私はそうは思えないのですが、植民地支配で我々を苦しめ、戦後は日本が金正日政権を支える食糧支援をするために、我々は異常な苦しみを得なければならない。そういう怒りを今の朝鮮人民に持たせてしまうような行為、この食糧支援がそういうもの。そういうことがあってはならない。朝鮮人民にさらに日本を恨むような行為をしてはならない」
とおっしゃいまして、これはたぶん和田春樹さんの言葉を逆説的におっしゃったのではないかと私は思うのですけども。しかしその言葉を聞いて、私は荒木さんを信じられるようになり、救う会とともに家族会は一緒にやっていけると確信いたしました。北朝鮮ではなく金正日政権との戦いなんだ、この拉致問題は。我々の家族を取り戻すためには金正日との戦いをこれから続けていかなければならない。そのために救う会と家族会が一緒になって立ち向かっていかなければならない、という思いで連帯していくことができたと思っております。
我々家族会も97年から長く続いた戦いの中で疲れておりました。先ほども言いましたように、マスコミはどんどん引いてゆくし、そして国民の中にはなかなか救出運動が盛り上がらない。佐藤会長は「徐々に日本の中に広がっていっている。すそ野は広がっていっているだろう」と言っておられましたけれど、私たちの実感として、テレビでは言わない、そして集会をしてもなかなか大勢の方が集まってくれないし。
最初の頃は集会に20人・30人というところから始まったんですが、それが徐々に大きくなって広がったのは確かです。でもそれが本当の大きな力になっていかない、何故なんだろう?という思いが非常にあって、署名運動してもなかなか署名してくれないような状況に陥ると、やはり我々のやっていることはこれでいいのだろうか、本当に自分の家族を取り戻せるのだろうか、また19年間の苦しみを味わってしまうのではないのだろうか、と考えてしまい、途中でめげそうになりました。しかし救う会の方々はあらゆる手をつくしアクションを起して、政府に訴えそれをマスコミに流し、拉致問題の風化をさせないように家族を引っ張っていってくれました。その点では救う会の皆様には感謝申し上げております。
それにつけても日本の国の政府が何もやってこないという現実がありました。我々が最初に会った当時の小渕外務大臣、1998年の3月か4月でしたけれども、その時小渕さんが何て言ったか。我々家族会のメンバーを前に、一緒に同席された救う会の佐藤会長に「佐藤さん、あなたが一番詳しいだろう?北朝鮮問題に一番詳しいだろう?どうすればいいかね?」と。時の外務大臣、責任ある外務大臣が家族を目の前にしてそう言い放ったんです。まったく責任ある外務大臣が拉致問題を全面的に解決しなければいけない責任ある外務大臣が、家族を目の前にそう言ったのです。
その時に私たちは日本の政府は何もしてこなかったんだ、ということを初めて知りました。大きな怒りを持ったのですが、それがずっと1997年から2002年まで続いていました。その中で家族はどれだけ苦しい思いをし、裏切られて悔しい思いをさせられてきたか、そういう長い歴史がありました。
最初我々も「政府は何もやらない。ただ北朝鮮という国は難しい。でも経済制裁というものをかけて北に対してものを言ってほしい」と言ってはいたんですけども、でもそれは難しい部分があるだろうし、経済制裁というと即戦争につながると、そういう強硬な手段はとれないのだろうなと、そう思っていたのですけども、1998年、テポドンが日本上空を飛んだ時、ただちに日本政府は本当に序の口ですけども、人の行き来を止めたりと、そういう制裁措置をとったのです。
実害のなかったテポドンで制裁措置をとりながら、実害のある日本人拉致というこの問題でまったく制裁措置をとらない。そのことを我々は知って「どういうことなんだ」と政府に強く抗議をしまして、それから我々の政府への怒り、そして「経済制裁をしてでも日本人を取り返していただきたい」という運動が始まりました。それから歴代の外務大臣、そして小渕さんが総理になった時もそうなのですけども、お会いすると彼らは良いことを言うのですが、それから先何もしてこない、すでに見てきています。
先ほども言いましたように、2000年に食糧支援をしております。1999年の訪朝団がありましたけれども、その時に野中さんが「1999年、20世紀中に起こった問題は20世紀中に片付けたい」と、朝鮮半島との間の問題でそうおっしゃいました。私たちはまさしく20世紀中に起こった拉致問題を20世紀中に片付けていただきたい、という思いで野中さんにも言いたかったのです。しかし野中さんは結局戦前の植民地支配に対する謝罪そして北朝鮮への援助、それをやりたい。正常化交渉してそれをやることが20世紀のうちにやらなければならない大きな課題なんだろう、という意味合いのことで訪朝団を結成されて行ったようです。
しかしその時にすでに世論がだいぶ大きな力になって安易な食糧支援はできなかった。ですから2000年の春になって訪朝団が訪朝した見返りに50万トン、という約束をしてきたのですが、国民の皆さんの声で止めていたのです。「やっちゃいけない」と「安易な食糧支援はやってはいけない」「拉致問題が解決するまでいけないんだ」と。
それが2000年になって河野外務大臣の時に「10万トン食糧支援をやる」という方法をとられました。外務省は被害者家族に対しては10日くらい前に「とにかく食糧支援はしません、経済支援もしません」とわざわざ各地の家族のところに行って回ったのです。私の父のところにも2日前でしたけれども、その時に外務次官は「食料支援はしません」と言いましたが、それから2日後新聞に大きく食糧支援が載せられると父は非常に怒っておりました。「あの人は何をしに来たんだ。我々を騙しに来たのか」と。
そういう怒りをもって我々は家族会として、外務省前・自民党前の座り込みを断行しました。おそらくあの10万トンというのは、日本国民に対して食糧支援10万トンで国民がどれだけ怒るのか、と試していたようです。あの時に10万トンの食糧支援を本気で大きな力で反対の声が挙がるようだったら、その先の食糧支援はちょっと控えた方がいいのではないのかと。ただその時に怒ったのは、結局我々被害者家族と救う会のメンバーだけでした。一般の国民の方はほとんど怒りを表に出さなかった。それがその年の秋の50万トンにつながるのです。
結局野中訪朝団が約束した50万トンに、おそらく利息の10万トンを加えた60万トン。常に北朝鮮に対して訪朝団が行く度にそうやって日本から援助なりお金なり持っていかれていた。そういう状況が本当に見え見えになってきて、「日本という国は何て情けない国なんだ、何故ここまで北朝鮮に対して媚を売りながら生きていかなければならないのか」という、家族会の中には大きな怒りがだんだん芽生えてきました。そして「このまま北朝鮮に対して弱腰の外交を続けていたら、日本という国がおかしくなってしまう」と皆さん感じてこられたと思います。
これ以降、横田早紀江さんも私もそうですけれども、全国で講演する際には「この拉致問題の解決をきっちりとやること。そして毅然とした態度や姿勢を貫くことが今まで弱腰外交と言われたのを変えていく。その先に日本という国が変わっていく」そう皆さんに訴え始めるようになっていきました。
歴代の首相で小泉さんが今回2回目の訪朝をされていますが、しかし前回の訪朝でもそうでしたけれども、日本の国会の中にいらっしゃる大勢の国会議員の有力者の方たちは、国交正常化をすることによって自分の名前を歴史に残せるのではないだろうか、という思いが多くあったのだと思います。ですからどうしても1999年に野中さんがおっしゃったように「正常化をしたい」という政治家の中にはそういう思いがずっと続いてきたのだと、我々は考えておりました。
森政権の時に私が土下座したのは、1ヶ月2ヶ月ほど前から森政権が拉致問題の棚上げをして平壌に行って金正日と会って電撃的に国交正常化を発表、という流れがあの中で行なわれておりました。私たちは佐藤会長からどういう経緯なのかお聞きしております。そういった流れの中で、森さんが我々家族会に会っていただけるというので官邸に来ましたけども、あの時は官房長官・中川秀直さんでしたが、官房長官が我々家族会に「たまたま森さんがそこを通るので、その時に会ったというかたちにしてください」と言われました。
我々は「何なのだ、それは?この拉致問題を本質的な苦しみを本当にわかっているのか?本当に国は解決する意志があるのか?」そして「家族会に会ったことをアリバイにして森さんは正常化に走ってしまうのではないか?」という恐れもありました。
この森さんのパフォーマンスを絶対壊さなければいけない。そう私は感じて、カメラの放列の前で何かをやって森さんのパフォーマンスを崩そう、そういうふうに考えて土下座をしたんです。で、土下座をしながら「とにかく正常化を先にやられると私たちの家族が殺されてしまいますので、正常化を先に行なうようなことはやめてください」ということを申し上げました。それで多少慌てたようで、それから家族は思い思いの言葉を発して、ようやくこの正常化と拉致問題の解決は同時進行、どちらが先になるかはわからないけれど正常化交渉の中で最終的にやる、という形質をとって、拉致問題の棚上げを防ぐことができました。それほど北朝鮮との国交正常化を政治家の方々は非常に望んでいらっしゃるんだなぁと思っております。
そして森政権が倒れて小泉政権になってすぐ金正男(金正日の長男)が日本に来ました。これは外国の情報機関から日本に寄せられた情報です。あの時に何が行なわれようとしていたのかというと、日本の政府は金正男が日本に入ったことすら国民に知らせようとしないで、そのまま黙って国外に退去させることを考えていたようですが、警察庁が意地を見せて金正男をカメラの前にさらす、そういうことをやったようです。その頃は平沢勝栄先生の力が働いたのかもしれません。(会場大爆笑)法務省・外務省も金正男を隠して国外退去させようとしていたわけです。警察庁の機転で金正男が日本に入って帰って行ったのがテレビの前にさらされました。
これを知った我々は、何故金正男を留め置かなかったのかと思いました。我々被害者家族、北朝鮮に拉致された大勢の人たちがまだ北にいるのに、何故金正日の息子である金正男を留め置かなかったのか。それを切り札に交渉ができるじゃないか。特に彼は犯罪者ですから、不法入国者ですから、60日間は確か拘留できるわけです。それもせずに、しかも審議官クラス参事官クラス6人くらいを一緒の飛行機に乗せて、シンガポールから北京の方へ連れて帰しました。こんな馬鹿な話があるんですか?で、官房長官が「誰かは特定できませんでした」と嘘をついて、その時の外務大臣・田中真紀子さんもそれに対するコメントをしませんでした。この方は「北朝鮮からテポドンが飛んできたらどうするの。早く帰しなさい」(会場笑い)と言ったらしいですけど。
そういうような弱腰で、果たしてじゃあ日本という国はこれから先、あの北朝鮮という国に対してずっと頭を下げ続けなければいけないのでしょうか?日本が日本であるために誇りを持って生きていくためには、大きな覚悟がいると思います。北朝鮮が今大きな武器を持って日本を狙っている、しかしその武器を作ったのは日本国民であり日本の国であるということを皆さん忘れてはならないと思います。日本の国民が政治にまったく関心がなくて、北朝鮮族議員を遊ばせておいた。その方たちが北朝鮮に対する優遇政策をとって、そして万景峰号でミサイルの部品を運び、他多額のお金を運び、それを持って彼らは武器を作って日本を狙って、それに怯える日本という国がある、これが現状であります。
そしてその武器に怯えて日本は朝貢外交というか貢物をしなければならない国になってしまって、果たしてこれでいいのでしょうか?あの危険な隣の国を作ったのは日本であるということ、それだけは忘れてはならないし、その責任は私は日本にも大いにあると感じています。
今回の小泉さんの訪朝ですけども、先ほど荒木さんがおっしゃったように、「2回目が、2回目が、2回目は」ということが我々にとっては大きな期待になっているのですが、最終的に、金正日との戦いの中で面と向かって日本の総理が話しに行かなければ全面的な解決はない、と我々も感じています。
しかし今現在、金正日政権と相対峙してそれを追及するだけの情報を持っているのか?というと、私は甚だ疑問に思っていましたので、まだ節足だと感じていたのですが、ただ一昨年の10月15日に被害者5人が帰ってきて、それから1年7ヶ月も彼らの子どもたちさえも取り戻していない日本の現状が、やはり「小泉総理に行ってほしい」という5人の言葉になってしまいました。それを作ったのも金正日であるのですけども、それを許してきたのも日本の政権で、日本の国会議員であり政府であったということです。小泉総理に2回も行かせなければならなかった、それが日本の国の弱さだということを皆さん感じてください。
この1年7ヶ月、何故あの子どもたちを取り返せなかったのか。我々にとっても、子どもたちをまず取り返さなければ次にはいけないということは重々知っております。最終的な拉致問題の解決には、小泉総理に行ってもらうことが一番いいのだろうと話し合って、全面解決してもらうのはこれしかないと思っていました。でも、これまでの間に金正日の嘘を撃破するだけの情報を集めてもいいじゃないですか。この1年7ヶ月日本政府は何もしてこなかった。今回の訪朝の結果がそうだと思います。
佐藤会長がよく言っていますけど、これだけ脱北者が大勢いて国境にも出入りする人がいっぱいいるので、1億円あれば外交機密の多くの情報がとれるんです。それをまったくやろうともしない。瀋陽の大使館には、中国生まれの3ヶ国語の北朝鮮語・日本語・中国語を使える人がいるのです。その方の調査さえ握っていない。その方に対する調査権も与えていない。とにかくあちこち行って情報を集めようという命令さえ出していない。つまり日本政府は拉致被害者のことを本当に助けようと思ったら、その情報をいっぱい集めなければならないはずなのに、それをまったくしようとしていないのです。
何のために外交機密費があるのか。日本人拉致被害者を救出するために1億円使ったって、それは国民皆さん納得することではないでしょうか。あんな馬や何かに食わせるようなお金じゃなくて、今回本当に外交で真面目な使い方、海外にいる日本人を助けるために救出するために使われるこの1億円はどこが惜しいのでしょうか。それをやろうとしていない国、それが私には非常に腹が立ってしょうがありません。
そして何の確証もなくて金正日政権と向かい合い、無残に敗れてきた小泉総理に残念でなりません。我々も小泉総理には歴史に残る政治家であっていただきたい。それは北朝鮮との正常化を成し遂げた政治家ではなくて、日本と北朝鮮の間にある拉致問題という大きな問題を全面解決した、そういう燦然と輝く歴史に残る総理大臣であっていただきたいと私たちは思います。そのために彼が訪朝されるのは歓迎しますし、その覚悟がなければ謀略に捉まるということをよく考えていただきたい。国民の皆さんにもそういうふうに考えていただきたいと思います。
私は映画好きで、1年前に“マジェスティック”という映画を観たのですが、ジム・キャリーが主演でした。たしか1950年代か60年代にアメリカで赤狩りというのが行なわれたのですが、彼はハリウッドで売れない作家をしておりました。そして赤狩りの標的にされて、共産党員でもないのに共産党の告白をさせられようとしておりました。
その彼がひょんなことから酒を飲みながら逃げようとして事故に遭い、その事故がもとで記憶を失って南部のある川沿いの小さな村にたどり着いたのですが、その村で彼にそっくりの英雄がいたようです。その英雄は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で亡くなったと言われていたのですが、その亡くなった息子が帰って来た、恋人が帰って来たということで村をあげて彼を歓迎、そこで暮らすようになったのですけども、彼は記憶があまり無いため自分は英雄だと思い、その村にいたのですが、最終的に記憶が戻りハリウッドに帰って行って赤狩りの裁判を受けるその時に、彼が裁判で言っておりました。
小さな村で昔の話を聞いて彼の心の中に芽生えたのでしょう、「あの戦争で死んでいった人たちが、今この大国アメリカで行なわれている赤狩りのような自由な意見を奪う、そういう国にするために彼らはあの戦線で傷つき死んでいったのだろうか。それは違う。国が、今のアメリカがこんな国になるために彼らは傷ついたのではない。我々今生きている人間がこの国を正しく作り変えて行かなければならない。正しい国にしていくためにあの人たちは亡くなっていったんだ」
私はその言葉を聞きまして、太平洋戦争で亡くなられた大勢の日本の方たちも、今この日本の現状を見て果たしてどう思うでしょうか?今の日本を作るために彼らはあそこで命を亡くし傷ついていったんでしょうか。私はそうは思いません。もっと日本という国が良くなるために、彼らは日本を守るために傷つき亡くなっていったのだろうと思います。
日本の現状は、今まで話した国民の命・生命を守りきれない、国家というものを守りきれない、そういう国にしてしまった日本国民・政治家の方たち、それに対してあの当時亡くなられた方たちがどう思っているのでしょうか。それが私は非常に残念でなりません。そして今回の訪朝もすべて、私はこの日本という国が本当にまともな国になっていかなければ国民の皆さんが安心して暮らしていける国にはならないと思います。
私の父が死ぬ前に言っていました。「私は日本を信じる、おまえも日本を信じろ」と。日本という国を信じろ、日本の国民を信じろと言った、そして倒れていった父。それを思うと私もこの日本という国を信じたいです。そして信じられる国にしたい。そういう思いを強くして私は今度の参議院選挙でそれを訴えて、国民ひとりひとりの皆様の力でこの国を真っ当な国、当たり前の国にしていかなければならない、本当にいい国にしていかなければならないというふうに感じております。
今後ともこの拉致問題、その本質を皆さんに考えていただきたいと思いますが、あえて家族会に対するご批判は受けますから、100人以上の拉致被害者がまだいるということ、そして彼らがこの星や月を見ながら故郷を思いながら日本からの救出を待っているということをこれだけは忘れないで、その方たちのためにも一緒になって戦っていただければと思っております。長くなりましたけれども、どうもありがとうございました。(大拍手)




